水溶液中におけるセルロースミクロフィブリルの変形挙動

LAST UPDATE: 11.20.2009

”バイオマス”というキーワードは生体材料に対する誤った理解を生む

 最初に言っておきますが、私自身、研究費の申請や一般向けの研究紹介などで”バイオマス”という言葉を使います。 この言葉はそれなりに世間に浸透しており、特に学生諸君にとってもイメージを持ちやすいかもしれません。 ところが、このバイオマスという言葉のイメージがセルロースなどの生体材料に対する理解を歪めているような気がしてなりません。

  1. セルロース、キチン、そしてデンプン等、生物はこれらの生体材料を人間に利用してもらうためではなく自身の生命維持の ために生産します。
  2. 生体の構成成分のため、本来、微量成分を含めた混合物として得られます。試薬瓶の中にあるセルロースやキトサンは原材料からの 抽出、精製コストがかかっており、もはやバイオマスではないでしょう。
  3. セルロース、キチンは生体の構造材料です。これらの化学構造だけでは何も分かったことになりません。生体材料としての 集合状態や高次構造形成を理解して初めて、これらの機能性を追求できるようになるります。

1と2は言うまでもないことですけれど、これらのことからバイオマス有効利用のために純品の素材から化学的改変等を経て高機能を 付与する戦略はスタート時点からかなりのハンディを背負ったものとなり、そう簡単に実用化へと結びつくとは思えません。
 古来からのセルロースの利用法である紙は木材のセルロース繊維をそのまま利用したうえで、添加剤を工夫することにより機能性を高めて います。キチンの有効利用にしても、できればカニの甲羅をそのまま粉砕して後は表面処理や他の材料との複合材料化によって 有効活用できるなら、それが一番良いにに決まっています。廃棄物バイオマスの有効利用はあちらこちらで試みられていますが、 トンのオーダーで発生する廃棄物からグラムオーダーの利用法を開発してもいったいなんになるのでしょう。

 バイオマス研究が無意味とは言いません。以上のことをふまえたうえでさらに研究、試行錯誤を重ねて真に実用的な発見、発明に 結びつくのでしょう。けれども、少なくとも化学を専門とする学生諸君は、”セルロース、キチン→こんな化学構造→バイマスなのでたくさんある→ それで何かしらの役に立つ”という単純な理解で終って欲しくないと願っています。


セルロース材料は単結晶繊維の集合したものである

 突然、話題が変わったようですが、ここで述べることは上で挙げたリストの3番目の項目と関連します。 セルロースはβ-グルコースが1-4結合によって連結した直鎖状のホモ多糖です。化学構造の説明はこれでOKですが セルロースをちゃんと理解するためにはその集合状態を考慮しなくてはいけません。

  1. 生体組織によって生産されるセルロース材料は単結晶繊維が集合したものである(ミクロフィブリル)。
  2. 単結晶繊維内ですべてのセルロース分子鎖はすべて同じ方向を向いている(天然T型セルロース)。
  3. T型セルロースは准安定な状態のため、物理的・化学的処理によって様々な結晶型へと転移する。

 合成高分子を、繊維の形状になるまで単結晶を成長させることは現在の技術では不可能です。 仮に単結晶繊維が作られたとしても、結晶中で分子鎖の向きは、自動車専用道路の対向車線のように互い違いの向き (逆平行)に配列するはずです。天然セルロース繊維は人工的に作られる合成繊維とは全く高分子鎖の集合状態が異なっています。 どのようにして、このような単結晶繊維が生体内で作られるかについては別項で述べます。


セルロース単結晶繊維は水溶液中で右巻きにねじれ変形を示す

常識的に考えて単結晶繊維は 分子軸方向を長軸とする柱状の形態をとるはずです。さらに結晶中でセルロース分子鎖はアミロース のようならせん構造ではなく、リボン状のまっすぐな分子形態です。2004年にさほど期待もせずにセルロース単結晶モデルの溶媒和 分子シミュレーション計算を行いました。そうすると、単結晶繊維モデルが瞬く間に右巻き方向にねじるという結果が得られました。 その後、一年間かけて計算条件を変えてシミュレーションを実施しても、必ず右巻きねじれ変形が発生します。 通常の化学実験ではないので、余りにも想定外の結果が得られた場合、新しい現象を発見したというよりもシミュレーションが失敗したと判断する方が妥当です。

 とにかくこの結果をポスターで発表するため2005年にアメリカ化学会ののGordon Conferenceに参加しました。ところが、口頭発表会場で米国コーネル大学 のBradyという方が、全く同じような溶媒和シミュレーションによるセルロース結晶モデルのねじれ変形を発表していました。思わず質問時間に 立ち上がって”私も同じような結果を得た、それをポスターで報告している!”と言ってしまいました。
 このJ.W.Bradyという方は、糖鎖のシミュレーション分野では所謂大家です。その人が、私の質問にびっくりした様子を見せ、 その後に私のポスターの結果について色々質問された挙句、”これを論文投稿するときは自分たちの投稿と同じ日に合わせ欲しい” と頼まれてしまいました。私は表面上は平静を装っていましたが、内心はこの展開にびっくりしたのと相手を待たせるほど論文を仕上げる 段階でもなかったので帰国したら大忙しだという思いが頭を占めていました。

 では、何故このことが重要視されたかと言いますと、その学会の数年前から電子顕微鏡やAFMを用いたセルロース単結晶繊維の直接観察 により、右巻きのねじれ形状が確認されるようになっていました。分子シミュレーションで再現されたということは、このねじれ変形が セルロース結晶の持つ本来の物理的特性であること(電顕観察などの観察時に外的要因で起こったartifactでないこと)が証明されたわけです。 しかも、このようなねじれ変形は天然型セルロース結晶でしか発生しません。人為的に作られるU型、V型結晶の結晶モデルで同様な シミュレーションを試みても当初の柱状の形態を維持しますし、実験的にも観察されていません。何故、このような変形を生じるかについても よく分かりません。米国農務省のFrenchのグループは分子鎖がらせん変形することで説明しようとした節がありますが、セルロース分子鎖は高アルカリ処理や誘導体化 によりらせん構造を誘発させても左巻きになります(これは以前から私も承知していました)。こちらも、溶媒和による効果で説明しようと しましたが、どうもそうではなさそうです。現在、シミュレーション結果のエネルギー分割により変形の原因を探っています。