研究手段; 分子シミュレーションと分子モデリング

LAST UPDATE: 11.24.2009

 このページタイトルの分子モデリングや分子シミュレーションという言葉は、それらと関連する計算化学という用語とともにあまり厳密に 使い分けられていないようです。いずれにせよ、これらの言葉に共通していることは、コンピュータを支援用法とした分子の研究手段です。


分子の性質を予測する理論はあるけれど、実際の計算量が大変

   例えばNewtonの運動方程式を使えば、太陽系の惑星の運行を予測することができます。これと同じように分子力学法や分子軌道法と呼ばれる 分子の世界に適用される物理法則を利用すれば、理屈のうえでは分子の化学的・物理的性質を計算で求めることができます(但し、近似的に)。 ただ、簡単な分子であっても考えなくてはいけない原子数(分子軌道計算であれば電子数も含める)がそれこそ惑星の数より多くなり、取り扱う数式 も複雑なのでたちまちコンピュータの助けを必要とします。ましてや、私たちの研究室のように生体高分子のさらにその分子集団を扱うともなると とんでもないスケールの計算を要します。

 ここでは分子シミュレーションを"分子集団の刻々の動きを計算機によって仮想的に発生させ、その間の分子の動き、分子形態および熱力学量 を求める手段”と定義します。その時、化学実験で扱うような反応液全体を計算することはとても大きすぎるだけでなく、不必要でもあります。 実際は極めて小さな部分を取り出し、それを計算対象とします。本研究室の場合だと一辺が数〜数十nm程度の微小空間を取り扱います。

 次に、分子モデリングとは、コンピュータグラフィックスを利用して分子のグラフィックス画像をもとに、分子形態を調べたり分子の一部を 加工したりする手段としましょう(正確なところ、少し違いますが)。上で述べた分子シミュレーションにおいて、計算対象とする微小領域を設定 する際にも分子モデリングを利用します。また、計算結果を検討するときも分子モデリングを利用します。


分子シミュレーション研究もプロセスは実験と同じ

 分子モデリングによって構築され、分子シミュレーション計算の対象とする微小領域を計算システムと呼ぶことにします。計算化学の分野で 理論を専門とする人たちは新しい計算理論や方法を開発することを目的としますが、私たちは分子シミュレーションや分子モデリングを手段として 生体内の現象を理解しようとする立場です。従って、研究を進めるうえで工夫する点は計算システムのデザインとなります。関連する実験結果 と矛盾せず、化学的・物理的に合理的な計算システムをどのようにして構築するかが計算結果、ひいては研究の成否を決めるポイントとなります。

 全体の流れは通常の化学実験と似ています。化学実験では、反応系を設定し(試薬・溶媒、重量や濃度、反応容器や装置)、最適な反応条件(温度、時間、pH) のもとで反応させ、得られた生成物を分析します。同様に、分子シミュレーション研究では、計算システムを設定、最適な計算条件のもとで 計算を実施し、そこから発生する大量の計算結果を解析・吟味します。


分子シミュレーションを始めた理由

 私は、理論系の計算化学を専門分野とする研究室の出身ではありません。学部、修士と物理化学分野の研究室だったので 少なくとも測定データをコンピュータで料理するという環境には置かれていました。博士課程の指導教員は、高分子結晶構造 解析のプログラムを開発した先生で、在学中はそのプログラムを使ってX線回折データの解析と結晶構造決定に明け暮れる毎日 でした。
 大学に職を得てからはバイオ系の実験が主体となり、コンピュータを使った研究からは足を洗うつもりでしました。 それが諸々の経緯によって15年はど前に独立した研究室を立ち上げた際に、これまでのデータ解析にとどまらず100%コンピュータ の計算に基づいて研究を進める分子シミュレーションへと移行しました。ちなみに、その諸々の経緯をここで述べるわけにはゆきません。

 分子シミュレーションやその背景となる計算化学が化学研究手段のひとつとして利用されるようになってから、まだほんの20数年程度です。 上で述べたように計算化学の正式な教育を受けたわけでないので、分子シミュレーションを本格的に始めた頃は専門書相手に独学 の毎日でした。但し、全くの素養がなかった訳でなく次の三つの知識や経験が大きな助けとなりました。

  1. もともとX線結晶構造解析を専門としたので分子構造に関する基礎知識や取り扱いについての知識があった。
  2. 高分子X線回折(繊維図形)データの解析作業において多数の可能な結晶構造モデルの中から最も適切なモデル構造を選び出す トレーニングを受けていた。この解析プロセスは一般に多変数多極値問題と呼ばれるもので、結晶構造を決めるパラメーターや変数を 適時変更しながら最も最適な解を絞り込んでゆく作業です。
  3. 大学院の講義において、熱力学、統計力学、量子化学および分子軌道論を徹底的に仕込まれた。

 1と3は講義を受ける機会がなくても専門書で勉強できます。X線結晶構造解析についても学部4年生のときに先生から借りた 専門書を必死になって勉強したのを覚えています。3番目は講義を通してですが、この4科目で総単位数20単位に相当しました。 2番目の項目は教科書から得られるものではなく、実際の試行錯誤的による結晶構造決定の体験に基づいています。
 90年代になって、知り合いの実験系の方(特に、有機化学分野)で計算化学を取り入れようとする動きも見られ相談を受けたりも したのですが、大抵は2番目の問題が原因となって頓挫しています。通常の化学実験では温度や溶媒を変更して目的とする化学反応が 進行する条件を探しますが、計算化学で同様なことをするのに何をどうしていいのか分からないままギブアップという状況になって いました。中でも某国立大学の農学部の或る先生は困った方で、計算化学の統合ソフトを導入したもののどうやら化学の分析装置のような 感覚でマニュアルを読めば後は学生が使いこなすようになるだろうという雰囲気でした。まあ、結局は1000万円の統合ソフト システムがまともに使われることもなくゴミになったようです。

 アメリカ化学会が発刊している40余りのジャーナルのうち、計算化学や化学情報分野を専門とするものは2つあります。さらに JACSに代表される基礎化学分野のジャーナルも掲載される論文のかなりの数が理論計算の報告で占められます。その他、出版社から 発刊される学術雑誌についても90年発刊のJournal of Computational Chemistryを老舗として、その後も生命情報、分子モデリング研究を ターゲットとするジャーナルが増加してきました。今後、化学において基礎だけでなく応用研究の分野で研究、開発のアプローチに計算化学 やシミュレーションがどこまで関わってくるか不明ですが、少なくとも全く新しい物質を創出しようとするために、計算機支援が 不可欠であることは間違いありません。