補足:生体分子の立体構造

LAST UPDATE: 11.14.2006

 今ではフリーウェアの立派なグラフィックスソフトを使って、簡単に分子の立体構造を表示できます。私が学生の頃(おそらく4年生だったと思いますが)、学会発表に備えて多糖分子鎖の立体構造図を作図したことがあります。当時の分子構造を描画するプログラムとしてORTEPが知られていましたが、そいうものは限られた研究環境の人にしか利用できません。で、どうしたかというと、プラスチック製の分子模型を組み上げて、それを写真にとり、その写真の上にトレーシングペーパーを重ねてロットリングペンで分子構造を手書きで描きました。なんで写真をそのまま発表に使わなかったといいますと、それでは組み上げた分子模型を支持するためのスタンドやクランプも写っているからです。

 大学院生になると研究室のPCにプロッターが導入されたので、そのプロッターの描画コマンドを使って分子構造(具体的は多糖の立体構造)を描くプログラムを作成しました。最初は糖残基同志がうまく繋がらず、とんでもない分子図ができてしまいましたが、やっと設定どおりの構造が描かれたときは大変、うれしかったのを覚えています。ちなみに私が配属していた研究室は実に自由な雰囲気の部屋で、大学院生がろくに実験もせずに何日もプログラムを作って遊んでいも先生方は黙認でした。今とはやはり時代が違いました。

 留学先はX線解析を専門とする研究室だったのですが、なんとそこは分子構造描画のインフラがありませんでした。指導教授は論文を書くときに、大学所属の技術職員(Draw man)に結晶構造図の作図を依頼していましたが、発表に使用する最終構造はそれでいいんでしょうけど、解析途中の結晶構造すぐに作図してその構造の概略を確認したい場合があります。そんなときは、やむをえずコンピュータの出力にリストされている原子座標を使って方眼紙上に結晶構造の概略をを手書きしたことを覚えています。

 そのような涙ぐましい状況は、宮崎大学に就職して間もない頃、給料で買ったMacintosh&Chem3Dの導入で一変しました。当時はもちろん助手で、研究室の学生諸君と同じ大部屋に居ましたが、彼らは私のことをPCに向かって分子構造図を描いて喜んでいるへんな奴だと思っていたかもしれません。

 これで話を終えれば単なる思い出話、苦労話になりますので、このページの本来の主旨を次に述べます。現在のように高性能PCと様々な分子グラフィックスソフトが簡単にダウンロードできる状況にあって、かつて解析作業の過程で原子のx,y,z座標をひろいながら分子構造を吟味した経験は大事なものとなっています。コンピュータは計算が終了すれば原子座標に相当する無味乾燥な数値を弾き出してきますが、ちょっとしたパラメータ設定や計算の順序でそれらの数値がいとも簡単に変化することがあります。そのような体験から、解析結果として分子構造図を描くことはどうしても慎重になってしまいます。実験結果の表現でもちいられるような測定データの信頼度を有効数字やエラーバー(または、誤差範囲)で表現する手段を、分子構造図に適用できません(例外としてORTEP図の温度因子表現がありますが)。結晶構造図であっても対象がある程度の大きさの分子であれば、部分的に立体構造があいまいない部分や極端な例として複数の配座をとる可能性も生じます。そんな場合でも、他の領域と変わらない外観で分子を描くしか他に手段がありません。ましてや前のページのアニメーションにもありましたように、溶液中の立体構造となりますと常に形態を変化させていますので、そんな状態を特定の立体構造で表現する方がおかしいことになります。X線結晶構造解析(もちろん、フーリエ変換を伴う)より得られる立体構造情報は決定版と言えますが、回折データの情報量が少ない高分子繊維図形の場合、上で述べた曖昧さが必ず生じます。NMR実験の立体構造解析の手段となりますが、対象は溶液構造が多く、結果も複数の構造が提案されます。ましてや、分子モデリング・分子シミュレーション計算結果が示す構造は、通常、多くの可能性のなかのひとつにすぎず、初期状態や計算条件を様々に設定したうえで、得られた立体構造モデル群を検証し最も可能性の高いものをモデルを選び出す慎重さが要求されます。

 しかし、研究者によっては論文や学会発表で分子立体構造図を安易に提示される方がおられます。Chem3DやChemDrawのようなPCソフトを利用すれば簡単に分子構造図が描けるので、そのような描画ツールを使い、”自分の実験結果を説明する立体構造です”と自信たっぷりに説明されます。ところが実験結果そのものは立体構造と全く関係ないため、それらの立体構造モデルは実際のところなんの実験的、理論的根拠を背景としていません。その方が、生体高分子の立体構造や立体化学に対する基礎的な知識を持たない場合、とんでもない立体構造モデルを平然と提案されることがあります。現在の計算化学の解析手段をもってすれば、少なくとも”ありえない”構造は容易に予測できるにも関わらず!


以上、学生諸君にはかなり”コア”なお話になりましが、何かのきっかけでこのページを読まれた学外の方のご賛同を戴ければ幸いです。